内乱を好機とばかりにフランスへ侵攻を企てるハプスブルグ家
手引きするフロンド派フランス貴族
ノーデ:フロンドの乱は敵対するハプスブルグ家にとってはチャンスなのだ。
本の行商人ジャック:3月に入ると早々にレオポルト大公がブリュッセルを離れ、北フランスへ移動してきます。
ノーデ:手引きしたものがフランス側にいるのだ。
ジャック:もちろんフロンド側の貴族のひとり、ノワルムーティエさんですね。
ノーデ:なんとコンティ公とパリ高等法院の名前で、通過地の村にスペイン軍への糧食を提供するように命じるなどしたそうだ。
ジャック:フロンド派の貴族はどっちを向いているのか…
ピカルディ侵略
ノーデ:レオポルト大公がソワソンから数キロのポンタヴェールまで来ている!
ジャック:しかし、フランスは撃退に成功。
ノーデ:こういう外敵の侵略があるから、うっかり大貴族の首を刎ねるわけにはいかないのだよ。
ジャック:アンリ4世やルイ13世時代のリシュリュー枢機卿も、王権に反抗する大貴族にはバッサバッサと強い態度で断罪してきましたけれどね。
少年王のフランスを狙うレオポルト大公
ノーデ:しかし、今の状況ではそうはいかないよ。こうしてハプスブルグ家が虎視眈々とフランスを狙ってるのだから。
ジャック:貴族は大事な軍事力。去年、1648年夏のブルーセル逮捕が行われたのは、コンデ親王がこのレオポルト大公をランスで破り、ノートルダム大聖堂で戦勝を祝うテ・デウムを歌っている最中でしたね。
ノーデ:この勝利があったおかげで、宮廷はコンデ親王の軍事力を使えばパリを制圧できると考えた。その結果が、今まさに行われている1649年のパリ包囲なのだ。
ノーデのメモ:Wikipediaの日本語記事「ランスの戦い」(2024_03_19参照)は「戦勝を祝ってノートルダム大聖堂でテ・デウムが歌われたが暴動が発生し、1649年1月にはルイ14世はパリからの逃亡を余儀なくされた」と、まことしやかに書かれているが、これはちょっとニュアンスがちがっていて、ランスの勝利(1648年)をふまえ、パリを服従させるためにコンデ軍に包囲させるためには、国王と宮廷がパリを脱出する必要があった(パリは国王がいるかぎり、国王軍に攻撃されることはないから)。引用されている文献Parker, Geoffrey(英語)は未確認だが、すくなくともフランス語で書かれた歴史記述を参照したならば、それほど単純ではないことがわかるはずだ。出来事の経過が過度に省略され誤解を生む記述である。