1650年
1月14日 | 宮廷とフロンド派は反コンデの合意に達する。 |
1月18日 | コンデ親王、コンティ公、ロングヴィル公爵ら、3人の大貴族が逮捕されヴァンセンヌに幽閉される。 |
1月21日 | ロングヴィル公爵夫人、蜂起をうながすためノルマンディーへ出発。 |
2月2日 | 宮廷、ノルマンディーへ向けて出発。 |
2月24日 | ノルマンディー制圧後、宮廷、パリへ戻る。 |
3月5日 | 宮廷、ブルゴーニュへ向けて出発。 |
4月11日 | コンデ親王夫人、息子アンギャン公爵をともなって、ギュイエンヌへ出発。 |
4月30日 | ロングヴィル公爵、テュレンヌ元帥らがスペインの援助を受けることに合意。 |
5月2日 | 宮廷、パリへ戻る。 |
5月9日 | テュレンヌ元帥、ロングヴィル公爵夫人らに対し「公衆の安寧を攪乱し、大逆罪を犯したるもの」とする国王宣言がなされる。 |
6月1日 | ボルドー高等法院はコンデ親王夫人および息子を保護することに決定。 |
6月2日 | ラ・ロシュフーコー、ブイヨン両公爵、ボルドーへ入る。 |
7月4日 | 宮廷、ギュイエンヌへ向けて出発。 |
9月20日 | 宮廷側とボルドーの高等法院のあいだに和平交渉が始まる。 |
10月1日 | コンデ親王夫人、ボルドーを立ち退く。 |
10月2日 | ボルドーにおける和平宣言。 |
10月5日 | 国王、ボルドーへ入市。 |
10月15日 | 宮廷、パリへ戻るために、ボルドーを出発。 |
11月15日 | 宮廷、パリへ戻る。コンデ親王、コンティ公、ロングヴィル公爵ら、3人の大貴族、ヴァンセンヌからル・アーヴルへ移送される。 |
12月2日 | コンデ親王夫人、3人の大貴族の釈放をパリ高等法院に訴える。 |
12月30日 | パリ高等法院、3人の大貴族の釈放を国王に求める建白を決定する。 |
1651年
1月18–1月31日 | パリは洪水にみまわれる。 |
1月20日 | パリ高等法院による3人の大貴族の釈放を求める建白が行われる。 |
1月30日 | ガストン・ドルレアン、パリ高等法院のフロンド派、および逮捕された大貴族の擁護派は、3人の釈放とマザランの追放を求める秘密協定を結ぶ。 |
2月2日 | マザランとガストン・ドルレアンの関係は決裂し、ガストン・ドルレアンは以後、国務顧問会議への出席を拒否。 |
2月4日 | ポール・ド・ゴンディとガストン・ドルレアンの煽動で、パリ高等法院では、3人の大貴族の即時釈放とマザランの追放を求める建白が裁決される。 |
2月6日 | マザラン、パリを離れる。三部会の招集を求めるため貴族会議が開かれる。 |
2月7日 | パリ高等法院によりマザランとその一族の追放が裁決される。 |
2月9日 | パリ高等法院により、再度、マザランとその一族の追放が裁決される。 |
2月10日 | 摂政アンヌ・ドートリッシュはパレ・ロワイヤルに軟禁状態となり、3人の大貴族の釈放に同意。貴族と僧侶階級が三部会の開催を要求するために集合する。 |
2月13日 | マザラン自身の手により、コンデ親王、コンティ公、ロングヴィル公爵ら3人の大貴族がル・アーヴルで解放される。マザラン、最初の亡命。 |
2月16日 | 解放された3人の大貴族がパリへ凱旋する。 |
3月2日 | パリ高等法院は国務顧問会議からすべての枢機卿を排除する裁決をする。 |
3月12日 | パリ高等法院にて、マザランに対する告発が始まる。 |
4月3日 | 大貴族側とフロンド派の最初の内紛。 |
4月5日 | シュヴルーズ夫人の娘とコンティ公の結婚が取り消しになる。フロンド派の分裂。 |
4月6日 | マザラン、ドイツのブリュール(ボンとケルンの中間)に至る。 |
4月20日 | パリ高等法院は国務顧問会議からすべての枢機卿を排除する王令を登録する。 |
5月16日 | コンデ親王、ギュイエンヌ地方総督に任命される。 |
6月20日 | コンデ派の大貴族たちが国務顧問会議に出席することを拒否。コンデ親王、宮廷からもフロンド派からも孤立する。 |
7月6日 | コンデ親王、身辺の危険を感じたため、中部フランスのサン=モールへ退く。 |
8月3日 | ガストン・ドルレアンがコンデ親王をともなって顧問会議に赴くが、コンデ親王の不信感は続く。 |
8月4日 | コンデ親王、摂政と反摂政派の密約を警戒する。 |
8月17日 | 反コンデの国王宣言。 |
8月21日 | 高等法院にて、フロンド派とコンデ派が決裂。これをきっかけに情勢はコンデ派の排除へ向かう。 |
9月5日 | 国王ルイ14世成年に達する。摂政政治の終わり。 |
9月6日 | コンデ親王、ギュイエンヌ地方に向け、パリを出発する。(以後、コンデ派と宮廷の対立は1653年のボルドーの和平まで続く。) |
9月7日 | 国王ルイ14世は成年に達したことが宣言される。 |
9月8日 | シャトーヌフ侯爵、 パリ高等法院長モレ、そしてラ・ヴューヴィルを加えた新内閣が誕生。(パリ副司教ポール・ド・ゴンディ寄りの組閣であるとして、ガストン・ドルレアンとコンデ親王の怒りを買う。) |
9月21日 | パリ協働司教ポール・ド・ゴンディ、枢機卿になる。(以後レ枢機卿と呼ぶ。) |
9月22日 | コンデ親王、ボルドーへ到着。 |
9月27日 | 宮廷、ベリーへ向けて出発。 |
10月初旬 | アンヌ・ドートリッシュ、マザランに帰国をうながす。実現は3ヶ月後。 |
10月8日 | 反コンデの国王宣言。宮廷はブールジュへ。 |
10月31日 | 宮廷、ポワティエへ。 |
11月6日 | コンデ親王とスペイン王の間に協定。 |
11月11日 | マザラン、帰国準備完了。ドイツ、スウェーデンの傭兵により武装する。宮廷内の反発起こる。(宮廷との合流は翌年1月28日。) |
11月15日 | コンデ親王、コニャックで敗退。 |
12月4日 | パリ高等法院は反コンデの国王宣言を登録する。 |
12月13日 | 国王、手紙でマザランの帰還をうながす。 |
12月26日 | マザラン、フランスへ帰国。スダンに到着。 |
12月29日 | “パリ高等法院は「公衆の安寧を攪乱したるもの」としてマザランの首に懸賞金をかける裁決を下す(100000、一説には150000リーブルの賞金はマザランの蔵書を売却して支払われることになる)。” |
12月31日 | 地理的政治的にフランスは3つの極に分かれる。ポワチエ(国王)、ボルドー(コンデ派)、パリ(ガストン・ドルレアン、レ枢機卿、高等法院。ただし、この3者は協調関係にはない。) |
1652年
1月1日 | マザラン、ランスへ。 |
1月12日 | パリ高等法院、反コンデの国王宣言延期を裁決。 |
1月13日 | ポワティエに滞在する国王に対し、マザランの帰還を批判する建白がなされる。 |
1月24日 | ガストン・ドルレアンとコンデ派の大貴族の間で反マザランの協定が結ばれる。 |
1月28日 | マザラン、ポワティエの宮廷に合流。 |
2月10日 | 宮廷はソーミュールへ。 |
2月15日 | コンデ派の援軍として外国の軍隊がフランスへ入ってきたという知らせがパリへ届く。 |
2月22日 | コンデ親王、コンティ公、アキテーヌ地方のミラドウで勝利。 |
3月16日 | 宮廷はブロワへ。(コンデ親王、ボルドーで孤立。) |
4月2日 | パリ、ポン・ヌフの橋の上で深刻な暴動が起きる。(民衆は疫病、貧困、飢餓、略奪で疲弊していた。) |
4月3日 | パリ高等法院、再度、国王に対し、マザランの帰還に反対する建白を行う。 |
4月7日 | コンデ親王、ブルゴーニュ地方のブレノーで国王軍を破る。宮廷はそこからすぐ西のジアンにいた。 |
4月11日 | コンデ親王、パリへ到着。 |
4月21日 | 宮廷、ムーランまで移動。 |
4月28日 | 宮廷とコンデ派の和平交渉がサン=ジェルマン=アン=レーで始まるが、失敗。 |
4月30日 | パリで新たな暴動。 |
4月-5月-6月 | パリを中心にした戦闘。 |
5月 | 戦禍をのがれた近隣の農民が続々とパリへ避難してくる。 |
5月-6月-7月 | 戦闘はイル=ド=フランス全体に拡大。 |
5月10日 | ボルドー高等法院、楡の木党(反宮廷で、コンデ側につき、スペインともつながり、英国の平等派とも関係がある)と対立。 |
5月13日 | 再度、宮廷とコンデ派の和平交渉が始まる。 |
5月14日 | ガストン・ドルレアン、首都の警察を抑える。 |
5月16日 | パリでまた暴動が起きる。 |
6月16日 | パリの社団、同業組合が合同で貧困者や避難民の救援活動を組織する。 |
7月1-7月2日 | パリ市外、フォーブール・サン=タントワーヌを中心に国王軍とコンデ軍の戦闘が激化する。 |
7月2日 | パリはコンデ軍に市の門(サン‐タントワーヌ門)を開く。 |
7月4日 | コンデ軍による市庁舎銃撃事件。(300人におよぶパリの地区や社団組織の代表者とパリ高等法院などの法官、およびコンデ派の大貴族らが集まった集会で、国王の帰還を最優先とするパリ市民代表の穏健派に対し、パリ高等法院の過激派とコンデ派はあくまでもマザランとその勢力の一掃に固執する。コンデ派の退出後、突如市庁舎を取り囲むコンデ軍が発砲し始め、多くの犠牲者を出した。マザラン派に対する粛清とみられる。結果としてパリ市はすべての軍を市内から排除することに決定。) |
7月6日 | ボーフォール公がパリ総督に、ブルーセルがパリ市商人頭(市長に相当)に任命される。 |
7月11日 | 国王はパリ高等法院の代表に対し、マザランを遠ざけることを約束する。宮廷はパリ北西のポントワーズへ移動、そこにパリ高等法院を召集する。(これにより、パリにはコンデ=ブルーセル派の高等法院、ポントワーズには国王派の高等法院と、パリ高等法院はふたつに分裂する。) |
7月20日 | パリのコンデ=ブルーセル派高等法院、ガストン・ドルレアンを王国総代行官に任命する。 |
7月30日 | ボーフォール公が姉の夫であるヌムール公と上席権を争って決闘。ヌムール公の落命により、王族の求心力に影が差し、虚無感が広がる。 |
8月7日 | パリ高等法院を正式にポントワーズへ移す国王宣言がなされる。 |
8月17日 | 大法官セギエ、コンデ派の顧問会議を辞して、国王の元へ。 |
8月19日 | マザラン二度目の亡命。(この亡命はポントワーズの高等法院の裁定を国王が受け入れるかたちで実現した。それにより、ポントワーズの高等法院の権威が印象づけられる。こうしてマザランがいなくなったことにより、フロンド派は心理的にも政治的にも求心力を失った。) |
8月21日 | 宮廷はポントワーズからさらに北東のコンピエーニュへ移動。 |
8月26日 | 最初の国王特赦宣言。 |
8月29-8月31日 | パリのブルジョワとコンデの軍の緊張関係、およびパリ市民の反コンデ感情が高まる。 |
9月12日 | 聖職者会議の代表が国王のパリへの帰還を求める。 |
9月22日 | 二回目の国王特赦宣言。 |
9月24日 | パレ・ロワイヤルにて反コンデの集会。パリ市商人の六団体の要求により、ブルーセルは商人頭を辞任。 |
9月26日 | 三回目の国王特赦宣言。 |
9月28日 | 宮廷、ポントワーズへ戻る。 |
9月30日 | パリ市商人の六団体が代表を送り、国王にパリへの帰還と和平を求める。 |
10月13日 | コンデ親王、パリを離れる。 |
10月14日 | ボーフォール公、パリ総督を辞任。 |
10月21日 | 国王、パリへ戻る。ガストン・ドルレアンと娘のモンパンシエ女公爵(グランド・マドモワゼル)亡命。 |
10月22日 | ルーヴル宮にて国王親裁座が開かれ、1648年10月の高等法院による宣言はすべて無効とされる。フロンド派の法官たちは亡命。ガストン・ドルレアンはパリ南郊のリムール |
10月26日 | ガストン・ドルレアン、国王の特赦を受け入れる。 |
10月30日 | ボルドーにて、新たに過激派と高等法院の間で紛争が起きる。 |
11月17日 | コンデ親王スペイン側で軍の総司令官に任命される。 |
12月14日 | パリ高等法院は、国王に対し、国を追われたものをすべて呼び戻すよう建白を行うが聞き入れられず。 |
12月19日 | レ枢機卿、逮捕。 |
1653年
2月3日 | マザラン、パリへ帰還。 |
3月7日 | ボルドーにて、和平を求める動きが強まる。 |
3月29日 | マザラン、パリ市庁舎に歓喜の声で迎えられる。 |
7月20日 | ボルドーは反コンデ、反過激派となる。 |
7月31日 | ボルドーにて和平が宣言される。フロンドの乱の終わり。 |