《年表 I 》1648年-1649年

1648年

1月10日パリ高等法院にて訴願審査官職72名が団結し、新たな官職の売買に関する王令を登録しないように訴える。
1月11日-1月14日サン=ドニ街にて重税を不満とする群集の暴動が起きる。
1月15日パリ高等法院で開かれた国王親裁座にて、摂政側は問題の売官を含む財政関係の諸王令を強制的に登録させる。訴願審査官たちのストライキは続行される。オメール・タロンの演説。
1月16日パリ高等法院は前日の王令の登録を無効とする。同時に「国王親裁座にて登録された王令を高等法院が覆せるか」という議論が始まる。
2月20日パリ高等法院は「歴史的にも王権は法に従うもの」であり、「高等法院の権威は王権と密接に結びついている」が故に、摂政より優位に立つとの結論を示す。
4月30日国王宣言により、パリ高等法院をのぞく3つの最高法院にのみ〈ポーレット税〉の更新が認められる。
5月13日〈最高法院連合裁定〉により、4つの最高法院――パリ高等法院、援税院、会計監査院、大顧問会議――が団結する。
5月23日摂政は封印王状にて4つの最高法院に集会を禁止する。
6月宰相マザランに対する非難の声が高まる。
6月中旬ガストン・ドルレアン(ルイ13世の弟)が摂政とパリ高等法院の調停役となる。摂政アンヌ・ドートリシュは〈最高法院連合裁定〉を受け入れ、集会の禁止を無効と認める。
6月24日聖ヨハネの祭で宮廷はパリ市庁舎前広場に姿を現し、市民との関係改善に努める。権威をめぐる摂政とパリ高等法院の争いとは無縁な町民階級はこれを受け入れる。
6月30日-7月9日パリ高等法院で、腐敗した徴税官に対する取締りや人身保護令に等しい取り決めを含む〈27項目〉の改革が議論され、官報に発表される。財務監査長官パルティセリ失脚。
7月中旬パリ高等法院における宰相マザランに対する糾弾が頂点に達する。和解のための交渉が進む。
7月31日摂政側は国王宣言によりパリ高等法院に完全譲歩の姿勢を見せる。〈ポーレット税〉の更新が認められる。
8月5日急進派の評定官ブルーセルが徴税官の腐敗をあくまで追求する姿勢を譲らず。ガストン・ドルレアンは調停役として苦慮する。
8月20日コンデ親王がランスでスペイン軍に大勝利を収める。パリ高等法院は宮廷側の巻き返しに警戒感を強める。
8月22日もっとも有名な3人の徴税官が逮捕される。
8月26日国王臨席でノートルダム大聖堂にてフランスの戦勝が祝われている最中に、ブルーセルがシテ島の自宅で逮捕される。
8月26日-8月27日“〈バリケード〉の二日間。パリ高等法院の150人の法官が摂政アンヌ・ドートリシュと面会。いっしょについてきた20000人の市民が法官たちのうしろから圧力をかける。”
8月28日ブルーセル釈放。
8月30日摂政アンヌ・ドートリシュとパリ市の和解成立。
9月5日-10月4日摂政側が7月31日の国王宣言を再確認し、最終的にパリ高等法院との和解にいたる
9月13日宮廷はパリを離れ、リュエイユにあるリシュリューの姪の城へ移動。摂政とパリ高等法院の和解がまだ成立しないうちに宮廷がパリを離れたことにより、パリ高等法院と市民たちの反マザラン感情があおられる。
9月23日パリ高等法院は1617年の裁決「外国人の国事行為の禁止」により、マザランを公に糾弾する。
10月24日ウエストファリア条約締結。
10月31日宮廷はパリへ戻る。
11月-12月摂政側が再確認した7月31日の国王宣言を守らないことに対して、パリ高等法院から抗議の声が高まる。

1649年

1月5日宮廷は突然パリを離れ、サン=ジェルマン=アン=レーの離宮へ移動。パリがコンデ軍によって包囲される。
1月6日パリ高等法院、パリ市、それぞれが事態の把握と解決策を求めて行動する。
1月7日摂政側よりふたたび4つの最高法院に分散の王令。
1月8日パリ高等法院、宰相マザランを「公衆の安寧を攪乱した」として告発。告発状を公衆の面前で読みあげる。パリとサン=ジェルマン=アン=レー間の往来は「通行証」により管理される。
1月9日パリ高等法院、エルブッフ公を民兵組織の総指揮官に任命する。
1月11日パリ高等法院、コンティ公をパリ市民の総司令官に任命する。そのほかにも宮廷に不満をもつ貴族たちが続々とパリへ到着する。
1月13日王の権威の象徴であるバスティーユが非暴力的に占拠される。セーヌ川洪水。ボーフォール公パリに到着。
1月20日ロングヴィル公爵、フロンド派に加勢し、蜂起をうながすためノルマンディへ出発
1月21日パリ高等法院、国王に建白書を送る。
1月23日国王からパリ高等法院を非難する宣言が出される。
1月25日パリ高等法院、宰相マザランの財産没収・競売命令を出す。
1月28日ロングヴィル公爵夫人、内乱のさなか、パリ市庁舎にて男児を出産。
2月2日国王軍によりパリ近郊(南)のソー およびフォントネ=オー=ローズが略奪と焼き討ちにあう。過激な貼り紙が増える。
2月8日フロンド側の守備していたパリ南西のシャラントンが王軍によって占拠され、重要な食糧供給の道が絶たれる。これによりパリは完全にコンデ軍により包囲された。(バスティーユ陥落以来、優勢を保ってきたフロンド側は一転して形勢が不利になり、パリ高等法院はこれをきっかけに宮廷側との和平交渉へ動き出す。)
2月10日ボーフォール公爵とラ・ロシュフーコー公爵の援護により、ノワルムーティエ侯爵が、戦火の中、パリへ生活物資を輸送する。(食糧不足が原因でパリ高等法院とパリ市民の間が分裂。)
2月12日ポール・ド・ゴンディ(のちのレ枢機卿)とブイヨン公爵は、パリ高等法院長の反対にもかかわらず、王令をもってきたアンヌ・ドートリシュの伝令をパリへ入れる。
2月13日のちに列聖される司祭ヴァンサン・ド・ポールが、サン=ジェルマン=アン=レーの宮廷を訪れ、慈悲をもってパリに小麦を運ぶのを許すように説くが、聞き入れられず。
2月19日ポール・ド・ゴンディとブイヨン公爵は、コンティ公をうながして、パリ高等法院に対し、ネーデルランド総督レオポルド‐ギヨーム大公が送ってきたスペインの使者を受け入れさせる。(イギリスでは清教徒革命によってチャールズ1世が処刑される。)
2月27日8日に陥落したシャラントンに続いて、ブリ=コント=ロベールが国王軍の手に落ちる。
2月28日パリ高等法院では宮廷側との交渉に派遣する代表者が選ばれる。
3月4日-3月11日 リュエイユにおいて、宮廷とパリ高等法院の間で和平交渉が行われる。マザランの問題は一時棚上げとなる。
3月13日リュエイユでの和議に反対して、パリでは暴動が起きる。
3月15日パリ高等法院、リュエイユにおける和議を承認。
3月16日-3月30日 サン=ジェルマン=アン=レーにおいて、パリ武装解除のための話し合いが行われる。
3月22日スペイン軍、フランス北部のピカルディに進駐する。
4月1日サン=ジェルマン=アン=レーにおいて、和平の宣言が行われ、パリ高等法院がこれを確認する。確認事項はおよそ7点。1)パリ高等法院はサン=ジェルマン=アン=レーにおける国王親裁座に列席する。2)4つの最高法院は1649年の終わりまで合同集会を開かない。3)1649年1月6日以降の裁決(特にマザランを告発するもの)に関しては無効とする。4)高等法院が蜂起させた軍隊は解散する。5)パリ市民は武装解除する。6)スペインからの使者はすみやかに首都から退去させる。7)バスティーユとアルスナル(工廠)は国王へ返還する。
4月30日宮廷はコンピエーニへ移動。ボルドー情勢は悪化。
5月22日マザラン、姪の縁組をめぐり、コンデ家と対立。
5月26日エペルノン公、ボルドーにて勝利。
6月9日エクサンプロヴァンスの反乱は沈静化する。
6月中旬 王の帰還を待望する声がパリ市民の間で強まる。マザランに対する態度も軟化。
6月26日エペルノン公、暴動により、ボルドーから退去。
8月18日宮廷がパリへ戻り、前半の〈フロンドの乱〉は終結する。
9月-12月 コンデ派と宮廷の緊張関係が高まっていく。
12月初旬 不払いがつづいているパリ市の定期金債権者を煽動する貼り紙。パリ市内で暴動。